プロフィール

1931年9月20日 京都市に生まれる。
1944年4月 京都府立京都第2中学入学(途中学制改革) 高校在学中よりショパンに傾倒する。
1950年3月 京都府立桃山高校 4月 同志社大学文学部入学(哲学科美学)
1953年3月 同志社大学中退 4月 早稲田大学第一文学部文学科入学(美学美術史)
1956年11月 ポーランド留学許可書を受け取る。
『日本とポーランドの国交回復後、初の留学生が日本から海を渡る。大学入学以来つづけてきたショパン研究の文献を、イギリス駐在のポーランド大使館を通して文化芸術省から送ってもらっていたのが留学のきっかけとなったもの。両国間で大使が交換され、正式に国交が再開される日を待って渡欧するが、楽聖ショパンを生んだポーランドで研究のできるよろこびを胸に佐藤君は早くも荷造りに余念がない。』(1957/2/24産経新聞)
1957年3月 早稲田大学卒業 卒業論文は、「ロマンチシズム研究(ショパン研究)」
1957年4月 厚い知遇を受けていた福田定一氏(作家の司馬遼太郎氏の本名・当時は産経新聞社に勤務されていた)の推薦により、相愛女子学園大学(現相愛大学)助手となる。夏(?)ポーランドと日本の国交回復。
『たしか57年の夏の終りに、日ポ間の国交回復が宣言され、私は大急ぎで外務省に行き、旅券取得の手続きをし、その後日本に着任されたばかりのポーランド大使に、帝国ホテルの一室でじきじきにヴィザを頂いて感激したものである。(雑誌ポロニカIII 1994年)
1957年12月 ポーランド政府招待留学生として渡欧。クラクフ音楽院で学び始める。
『数日ワルシャワで過したのち、私はクラクフの音楽院へ行くようにと、文化省の方の説明があった。ショパンの研究家ヤヒメツキ文庫で勉強するのだな、と思ったがそうではなく、ショパンの研究をするなら先ず、ピアノのことを勉強すべしということだった。先生は人間国宝であるヘンリク・シュトンプカ大先生であった。(雑誌ポロニカIII 1994年)
1958年春 シュトンプカの手紙を持ってワルシャワに戻り、ワルシャワ音楽院に籍を置く。
ホミンスキ、リッサといった著名な教授の講義を聴講する許可を得る。ショパン協会の資料室と国立図書館に通う。
『大量のショパンに関する文献があった。宝の山にふみ込んだ気がしたものである。(同上)
この年、フーツォンと知り合う。
フーツォン(傅聡)の演奏を初めて聴いたのは、1958年の春のことであった。留学生としてワルシャワの学生寮で生活をしていた私は、中国からの留学生であるシ・ターチェン(史大正)と友達になった。史君とはすぐに本当に親しくなってお互いの部屋を訪ねあっていたが、ある日史君の部屋にあるアップライトで、傅聡の演奏を聴いて仰天させられてしまった。傅君は史君と一緒に留学してきたのである。』(フーツォンリサイタル 1999.11.21. 東京王子ホール)   
1959年2月 帰国 4月 相愛女子学園大学音楽学部非常勤講師となる。
1960年?月 日本ショパン協会設立。理事となる。12月<ポーランド民謡集>発行。薗部三郎と共に歌詞を翻訳。
1961年6月 同大学講師となる。
1965年2月 第7回国際ショパンコンクールにオブザーバーとして招聘され、渡ポーランド。以後毎回招聘を受ける。
1968年4月 相愛大学助教授となる。
1975年4月 同大学教授となる。
1978年4月 ワルシャワ国立ショパン研究所の正研究員となる。
1978年12月 論文<ポーランド国立図書館蔵のショパン作プレリュード作品28自筆譜の研究I>を発表。
1979年9月26日 ショパン及びポーランド研究、さらにポーランドと日本の文化交流に力を尽した功績により、ポーランド国家文化勲章(オルドル金賞)を受賞
1983年5月 この月より1986年2月号まで、日本ショパン協会会報に<ショパン、人と作品>を連載する。
1984年10月17日 日本ショパン協会関西支部設立。支部長となる。
1986年1月 論文<ポーランド国立図書館蔵のショパン作プレリュード作品28自筆譜の研究II>を発表。以後、1987<同上III> 1988<IV> 89<V> 90<VI> 91<VII> 92<VIII> 93<IX> 2000年3月<X>を発表。
1988年3月 尽力がついに実り、ポーランド国立ショパンアカデミーと相愛大学の姉妹校提携。ポーランド国立ショパンアカデミー名誉ショパンメダル受賞。
1995年3月 ノースカロライナ大学マン・オブ・ザ・イヤーに選ばれる。
1999年3月 相愛大学を定年退職し名誉教授となる。 4月 大阪音楽大学大学院、滋賀大学大学院非常勤講師となる。
2002年3月 大阪音楽大学大学院退職
この間、<ショパンとピアノと作品と>(東京音楽社) <ピアノの時代ポリフォーン> <ポーランドのピアニストたちI/II/III> <ショパン研究をめぐるエピソード> <ユリアン・フォンタナをめぐって> <カロル・エヴァシオ・ソリーヴァ> <19世紀ポーランドロマン主義とショパン>など論文や著作多数。93年ごろから、<ショパン書簡集>のポーランド語からの翻訳を手がけていた。また、教育面では、音楽学のみならずピアノへの造詣の深さと、厳しくも暖かいユーモアにあふれた人格に演奏家からの人望が厚く、多くの生徒が育っている。
2002年3月21日 享年71歳 ご逝去 
[年表は、佐藤先生の生徒でポーランドに留学中の館愛子さんがまとめられたものを元に作成]
 
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