フランツとマリー ~手紙と音楽で綴るリストとマリー・ダグー、愛の日々~ 特設ブログ

Festival SenLiszt サンリスト音楽祭の3日間

<2011年シフラ音楽財団の優勝者のコンサート>
2011.11.6.11h
Omo BELLO, soprano – Laureate 2011
Aeyoung BYUN, piano

Viardot/Chopin
Seize ans ! (16才!) Aime-moi (Mazurka op.33/2) (わたしを愛して!)他

Simon GHRAICHY, piano – Laureat 2011
Liszt
Danse indienne, illustration de i’opera l’ Africaine de Mayerbeer
(インデアンヌの踊り・マイエルベールのオペラ“アフリカの女”のイメージを音楽にした)
Mephiste valse no.1 (メフィストワルツ)
Sarabande et  Chaconne de l’Opera Almira de Handel
(ヘンデルのオペラ“アルミラ”よりサラバンドとシャコンヌ)ほか


 この二人が今年の優勝者で、黒人のソプラノ歌手の歌声はすばらしかった。きっとまもなくオペ  ラのステージに登場することと思う。
ピアニストのヘンデルの曲の編曲版の演奏も素晴らしかった。
バスの時間が来るので、残念ながら少し聞き残して、フランツ・リスト講堂を後にした。夢の3日間が終った。



<2日目を聴いて、眠れないまま書いたメモ日記> Sanlis, samedi 5 novembre 2011
シフラのことを名前はよく知っていたが、ここに来てはじめてその偉大さを知った。今まで大きな関心を持つこともなく過してきたことを本当に残念に思っている。午前と午後の演奏会で聞いたTchaikowsky/Cziffra:transcription sur Eugene Oneguine, De Falla/Cziffra:danse du feu, Brahms/Cziffra:Danses Hongroises no1,no4 et no5, Liszt/Cziffra:Rhapsodie Hongroise no.19 は、どれもすごい編曲作品だった。リストも他の作曲家の作品の編曲に情熱を注ぎ、そしてまた自分の作品を何度も書き直して改訂版を出版して、世に問い続けた作曲家で、シフラはリストの最高の後継者だったのであった…。

そして今夜、昨日のスペクタクルで使われた大スクリーンが舞台に再登場、舞台で行われていることが、いろいろの大きさと角度から映される。18h20、私はもう一人の偉大なリストの後継者を知ることになった。シプリアン・カツァリス!何度も来日され、NHKの趣味の時間のピアノ講座の先生としても、大変有名なピアニスト。私は何故か聞き逃してばかりいて、一度も聞いたことがなかった。彼の即興演奏は15分の予定をはるかに越えてくり広げられた。あれよあれよと驚くばかりで、曲名を思い出せないままに次の聞き知ったテーマが現れ、また次々と…。果てしないピアノ音楽の饗宴だった。激しい拍手の中カツァリスは何事もなかったように去っていかれた。ぼっとした頭のまま、舞台は次に移った。<ジョルジュ・シフラへのオマージュ>と題された映像が、大スクリーンに映し出された。シフラの幼少期から苦難の時代に続いてパリ時代、そして・・・(この礼拝堂とシフラ財団については、別項でくわしく紹介します。)

1時間半ほどの休憩を挟んで、最後は文字通り<誕生祝の大演奏会>。曲目と演奏者の顔ぶれから想像できるように、リストとシフラを讃える何とも素晴らしいピアノの饗宴だった。あとで考えると、どの1曲も欠かせないとわかるプログラミングの妙!ヴァイオリンとチェロが入ったことで、コンサートがより充実したものになった。花房晴美のメフィストワルツのソロをのぞいて、すべての演奏に音楽監督のイヴ・アンリ自身が出演、プログラミング、演奏、アイデアに富む装置のすべてに彼の実力が発揮された音楽の祭典だった。
Bonne nuit !

 



 

2011/11/21

Festival SenLiszt サンリスト音楽祭 2日目 夜の部

<フランツ・リストとジュルジュ・シフラの誕生祝の夕べ>

18h15:<Cyprien KATSARIS, piano-improvisations>
<シプリアン・カツァリス、ピアノ即興演奏>

18h30:<Hommage a Georges Cziffra, projection sur ecran geant>
<ジョルジュ・シフラを讃えて、巨大スクリーンでビデオ上映>

21h00:<Grand Concert Anniversaire a 2 pianos, 4,6 et 8 mains>
<お誕生記念の大コンサート 2台のピアノを4・6・8手で演奏>

♪ Liszt:Rhapsodie hongroise no2 a 4 mains (ハンガリア狂詩曲 第2番 4手)
Jean-Philippe COLAARD,Yves HENRY, piano

♪ Liszt:Mephisto Waltz (メフィスト・ワルツ)
Harumi HANAFUSA, piano

♪ THALBERG:Fantasie sur Norma pour deux pianos (ノルマによる幻想曲 2台のピアノ)
Philippe GIUSIANO,Yves HENRY, piano

♪ RACHMANINOFF:Trois danses pour 6 mains (3つのワルツ 6手)
Eric ASTOUL,Philippe GIUSIANO,Harumi HANAFUSA,Yves HENRY,Emmanuelle SWIERCZ, piano

♪ SARASATE:Airs bohemiens (ボヘミアの歌 ヴァイオリンとピアノ)
Elenore DARMON, violon-Yves HENRY, piano

♪ POPPER:Rhapsodie hongroise (ハンガリア狂詩曲 チェロとピアノ)
Adrien FRASSE-SOMBET, violoncello-Yves HENRY, piano

♪ Nima SARKECHIK, improvisations piano (即興演奏)
  Serge FORTE, improvisations piano jazz (ジャズ即興演奏)

♪ MONTI:Czardas (チャルダッシュ)
Elenore DARMON,violon-Adrien FRASSE-SOMBET, violoncello-Yves HENRY, piano

♪ LISZT:Marche de Rakoczy pour huit mains sur deux pianos (ラドスキー行進曲 2台のピアノ 8手)
Harumi HANAFUSA, Jean-Philippe COLAARD, Philippe GIUSIANO, Yves HENRY, piano

 

2011/11/19

Festival SenLiszt サンリスト音楽祭 2日目

■2011.11.5 (土) 

<フランツ・リストとジュルジュ・シフラが編曲した有名な曲の数々>

11h00 (第1部)
Nicolas BRINGUIER, Eric ASTOUL, Alexandre LACOMBE, Herbert du PLESSIS,

15h30 (第2部)
Bruno PELTRE, Isabelle OEMICHEN, Tamas PREGUN, Emmanuelle SWIERCZ

それぞれ四人のピアニストが30分くらいずつ演奏。全曲目は省略しますが、シフラ編曲の曲は聞いたことがなくて、驚くとともに、その素晴らしさに感動しました。
♪ Tchaikowsky/Cziffra : transcription sur Eugene Oneguine    ♪ De Falla /Cziffra : danse du feu
♪ Brahms / Cziffra : Danses Hongroises no.1, no.4 et no.5   ♪ Liszt / Cziffra : Rhapsodie Hongroise no.19 等など  

 

  

 

 

2011/11/18

Festival SenLiszt サンリスト音楽祭

<リスト生誕200年+ジョルジュ・シフラ生誕90年記念音楽祭>
■ 4/5/6 novembre 2011
■ Chapelle Saint-Frambourg – Senlis サン・フランブール礼拝堂
  Auditorium Franz Liszt  フランツ・リスト講堂

11月4日(金)  18h00 
“LA VIE DE LISZT” RACONTEE AUX ENFANTS Ouvers a tous
子どもたちに語る「リストの生涯」(大人の方にも公開) *14h30からの部は、小学生にだけ公開された。
Brigitte Fossey, textes   ブリジット・フォーセイ、テキスト
Yves Henry,piano イヴ・アンリ、ピアノ

20h30 リストのロ短調のソナタをめぐって
LISZT/KOMIVES リスト/コミヴェ 「15の管楽器によるロ短調ソナタ」
パリ国立高等音楽院管楽器アンサンブル
指揮 : Clement MAO TAKACS   クレモン・マオ・タカクス

 LISZT/SAINT-SAENS
2台のピアノとパリ国立オペラ座のダンサーによる
Giovanni BELLUCCI, piano 1 – Yves HENRY, piano 2
Choregraphie : Bruno BOUCHE
Danseurs : Bruno BOUCHE – Eewan LEROUX – Yann SAIZ – Daniel STOKES. 

 

 

ブラヴォー!!!「フランツとマリー」アンコールにこたえて

休憩なしの1時間50分の公演が終りました。ピアニストが「葬送」の最後の音を弾き腕をおろされるまで、息をつめた静けさが場内を満たしたあと、割れるような拍手。で「ああ、終ったのだ」と一瞬夢から覚め我に返りました。
「日本語のテキストで公演をするのは初めてのことで、大変感動しています。皆さんにあと2曲聴いていただきたいと思います。1曲目は、ショパンの嬰ハ短調のノクターン、3月11日大きな災害にあわれて苦しんでおられる方々に捧げたいと思います。2曲目は、日本の歌“さくらさくら”のメロディをテーマにショパンになりかわって、私が作曲をしました“さくらマズルカ”です。このスペクタルを企画してくれたKeiko Okuraと、ピアノほか便宜を図ってくださったRyoichi Totsuka に捧げたいと思います。」Yves HENRY

   

2011/11/10

「フランツとマリー」公演プログラムに追加して参考のために(6)

●1847(36歳) 
2/22 キエフで、カロリーヌ・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人というすばらしい女性に会って家に泊まってそこで書いていると、得意そうな手紙をマリーに送った。

○1848(48歳) (1/17)

    MARIE:あなたの新しい計画ほどわたしを驚かせるものは他にありません・・・

 MUSIQUE 11:≪葬送曲≫ 詩的で宗教的な調べ No.7

「フランツとマリー」公演プログラムに追加して参考のために(5)

●○1839(28と34歳)
1月 ジュネーヴから、3歳の長女を呼び寄せて夢中で可愛がる。彼の自由への渇望は、日増しに大きくなり、マリーに、フィレンツェかパリで子どもを育て、以前から望んでいた文筆活動を始めるべきだ、自分は演奏旅行が終るたびに彼女の元に帰るから、とすすめる。マリーはその計画を悲しんだ。葛藤は大きくなっていったが、ふたりの旅は続いた。2月 ローマ到着 ●3/8 ローマで、史上初めてのピアノ・リサイタル。5/9 三番目の末子ダニエル・リスト誕生、このたびは母親不明という届け出。6月中旬 ローマを離れるが、ダニエルは乳母とフィレンチェに残された。 

MUSIQUE 8 超絶技巧練習曲 No.8 ≪狩猟≫ 

   MARIE:わたしはいつも沢山の愛人たちを見てきました。時間がたって・・・今夜はフェニーチェのすばらしい劇場にいます。・・・ 

MUSIQUE 9:≪リゴレットによる演奏会用パラフレーズ≫ 

6/29~9/10ごろまで、フィレンツェ近くのルッカで過した。マリーはひどい鬱状態。10/18 別れを決意。同棲生活は終局を迎え、二人はそれぞれフィレンチェを離れる。
○10/19 リヴルネへ 10/23 二人の娘を連れて、ジェノヴァ~マルセーユ~リヨン~11/3 パリ着 ダニエルはパレストリーナに残された。●10/19 ボローニュへ 10/24 ヴェネツィア着~船で10/26トリエステ着。 

   FRANZ:マリー、ここであなたに完全にお別れを言います。アデュー。・・・
   MARIE:愛するこのイタリアの地をあなたに最後のお別れも言わないで・・・
   FRANZ:マリー、ここであなたに完全にお別れを言います。アデュー・・・
   MARIE:愛するこのイタリアの地をあなたに最後のお別れも言わないで・・・ 

MUSIQUE 10 ≪悲しみのゴンドラ≫ 

   FRANZ:神の名において、我々が何を言おうと、何をしようと、一度たりとも・・・
   MARIE:愛しいフランツ、わたしの狂気が脳にまたとりついて・・・
   FRANZ:僕に達する一条の光、僕をあたため、生気を与えてくれる唯一の源・・・ 

●11/5 トリエステでの凱旋公演。11/15~12/17 ウィーンで驚異的なプログラムで6回の演奏会。12月下旬、1823年以来初めてのハンガリー演奏旅行。この伝説的なヴィルテュオーゾ・ピアニスト時代は、1847年まで続く。

○1840(35歳)

ダニエル・ステルンのペンネームで、論文・随筆・小説の執筆活動を本格的に始める。芸術性の高い華やかなサロンを再開した。
6月 リストのロンドン公演を知って突然追っかけを敢行、リッチモントに滞在。この行動は貞淑であるべき上流社会には受け入れられず、リストも対応に苦慮したという。

●○1841~1843
3回の夏を、ノンネンヴェルトで子どもたちと過す。フランツはドイツ各地で演奏会。

●○1844(33歳と39歳)
フランツは、4/5パリに着く。4/16・25のイタリア劇場での演奏会で大成功を収める。マリーは4/9ごろ、フランツへ絶交状を送る。彼は4通の返事のあと、4/25「マリーからの手紙を全部返す」と書いている。この日をもって二人の愛人関係は終わった。

○1845(40歳)
リストへのあてつけだと評判になった小説「ネリダ」出版。●1846年5/25フランツは、「ネリダ」を読み終えたと、マリーに書いている。そして自分が主人公のモデルだということは一生否定し続けた。

 

「フランツとマリー」公演プログラムに追加して参考のために(4)

  ●○1837
8月半ば イタリアへ出発。北イタリア湖水地方を探索し      て、8/29ミラノ着、9/6コモ湖畔ベラージオに落ち着く。 ふたりは水入らずの幸福を再び手に入れた。11/9ロッシーニがミラノに着きこの冬中滞在、フランツはミラノのスカラ座や、ロッシーニ主催の「金曜コンサート」に出演して大成功をおさめる。12/24次女コジマがコモで誕生。すぐに里子に出される。コジマは1857年にリストの高弟のハンス・フォン・ビューローと結婚し二児をもうけるが、64年にヴァーグナーと愛人関係になり、70年には正式に離婚して再婚した。

   FRANZ:幸せな恋人たちの物語を書くときには、コモ湖の湖畔を舞台にするとよい・・・
  MARIE:夜が来ました。山々の黒い稜線が私たちの周りを円のように囲んで・・・

 MUSIQUE 6 巡礼の年第1年「スイス」より≪オーベルマンの谷≫

 ●○1837 
マリーは日記をつけていた。10月某日コモでの二人の様子が記されている。フランツが初めてパガニーニの演奏を聴いたのは、1832年21歳の時だった。たった4本の弦で聴衆を魅了する妙技に接して以来、パガニーニは常にリストの目標の芸術家だった。

   MARIE:わたしたちはふたりきりで、ひっそりと暮しているが、ときどき彼が・・・
  FRANZ:芸術を、自分本位の喜びや不毛な名声を手軽に得る手段としてではなく・・・

 MUSIQUE 7:パガニーニの奇想曲第24番による練習曲

●○1838(27と33歳)
1/ 29 マリーがミラノに移ってふたりは共に過した。華やかな社交生活が戻ってくる。フランツは作曲と演奏に大活躍、人気者だったが、彼自身はミラノの聴衆に対する軽蔑の念をおさえることができない。3月 ヴェネツィアへ移ったが、風土がマリーに合わず、体調を崩し憂鬱な日々を送る。4月 洪水に見舞われたハンガリーの慈善演奏会のために、フランツは、マリーを残してウィーンに行き2ヶ月滞在する。このウィーン行きが、彼らの間の溝を深めることになった。病気になったマリーは、病状を知らせ、すぐに帰るよう書き送っている。回想録で彼の周りには女性の存在がたえないこと、またサロンでの成功、新聞の賞賛、皇女たちからの招待に舞い上がって自分を忘れたなどと嘆いている。6月半ば~7月半ば ジェノヴァに移る。彼はマリーのためにデラックスなヴィラを借りた。夏には再びコモ湖畔で過ごして、10月中旬、ふたりはフィレンツェに落ち着いた。 

  MARIE:わたしはあなたを激しく、そしてあなたのためになるはずだと思って・・・
  FRANZ:何物も僕の心にぽっかりあいた空洞を満たせはしまいだろう・・・
  MARIE:神秘の人、怒りと祝福の不可思議な天使、あなたはわたしを・・・

 

「フランツとマリー」公演プログラムに追加して参考のために(3)

   MARIE:ひとたびピアノに向かうと、フランツは我を忘れて天賦の才能に身をゆだね・・・
   FRANZ:芸術家というものについて考え続けています。結局芸術家とは・・・

●○1836(25と31歳)  9/7~15 ジョルジュ・サンド親子3人とシャモニーで会い、アルプスの山旅。10/16 パリへ戻り、フランス館へ住む。10/24 サンドもパリに到着、同じ館に住み、三人は合同でサロンを開く。11月 ショパンのソワレで、フランツはショパンと共に演奏。急ごしらえのまじめで専門性の高いこのサロンには、ラムネー、ミツキエヴィチ、ヌーリ、マイヤベールなど、文学、音楽、美術などのエリートが集まった。リストも即興演奏、芸術論争をくり広げた。サンドはここではじめてショパンの演奏を聞いた。

●○1837(26と32歳)  1月 サンドはノアンへ帰る。三人は文通を続ける。2/5 病後のマリー、ついにノアンのサンドの館を訪ねた。タールベルクとのピアニスト対決をひかえていたフランツは、パリに残る。彼はノアンとパリに離れていたこの短い期間に沢山の手紙を書いている。   5/3~7月末 二人でノアンに滞在。
        MARIE:ノアン、1837年2月20日 たった今お手紙を受け取りました・・・
        FRANZ:君の手を僕の手の中に入れ、金色に輝く豊かな髪で・・・ 

MUSIQUE 5 ≪バラード 第2番≫ 

 

2011/11/02

「フランツとマリー」公演プログラムに追加して参考のために(2)

●1833~35(22~24歳) 本格的な演奏活動を再開する。パリやマリーの別邸クロアッシー城で、二人は逢瀬を重ねる。34年10月半ば、ミュッセからジョルジュ・サンドを紹介される。
  MARIE:魅惑的な若者の声が、輝きに満ち、あるいは暗くふるえ・・・
  FRANZ:わたしの親愛なるリスト様、・・・ジュルジュ・サンドより
  MARIE:ね、いいですか?自分にないものを相手にお求めになるために・・・

 MUSIQUE 3 ≪コンソレーション(なぐさめ)≫ 第2番 

○1834(29歳) 11月末娘ルイーズ・ダグーが病に倒れ、数日後母の腕の中で息を引き取る。悲しみに沈み完全に鬱状態になり、実家の田舎の城に身を寄せる。フランツと会おうともしない。
●○1835(24と30歳) 3月フランツから手紙が届き、4ヶ月ぶりに彼らはパリのフランツの母の家で再会する。
   FRANZ:あなたのことを話してくれますか?
  MARIE:すべてお話ししますわ!〔・・・・・〕
 ふたりがいつ駆け落ちを決意したかははっきりしない。いずれにせよ、恋人たちは以前にもましてお互いを求めあうようになり、やがてマリーはみごもっていることに気づく。
5/25 マリーは、8年間連れ添った夫に永久に別れたいという手紙を書いてパリを離れる。
6/1 リスト、パリを離れ、二人はスイスのバーゼルで落ちあう。マリーは、ライン河に面した現存する高級ホテルのドライ・ケーニゲに、フランツはコウノトリという小さなホテルに投宿。すぐにマリーのホテルに合流、身分の違いがこういうところに現れている。
6/14~7/19 スイス中を旅行。7/20 ジュネーヴ着 11/9 ジュネーヴ音楽院で教え始める。12/28 長女ブランディーヌ・リスト誕生。母の名前は偽名。赤ん坊はまもなく田舎の乳母に預けられた。「ジュネーヴの鐘」(後に「巡礼の旅第1年スイス」No.9)を献呈する。

MUSIQUE 4 ≪ノクターン 愛の夢≫ No. 3