文学と音楽のスペクタクル「フランツとマリー」
~手紙と音楽で綴るリストとマリー・ダグー、愛の日々~
公演のプログラムの順番どおりに リストとマリー・ダグーの簡単な年譜と、公演で弾かれたリストのピアノ曲を記します。
(○=マリーダグー ●=フランツ・リスト)
○1805(0歳)
12/31 カトリック教徒のフランスの亡命貴族を父に、ドイツの銀行家の一族の娘を母にマリー・ド・フラヴィニー、ドイツで誕生。
●1811(0歳)
10/22 エステルハージ公に仕えるドイツ系のハンガリー人を父に、オーストリア人を母に、フランツ・リスト、現オーストリア領の村ライディングで誕生。
●1819(9歳) 10月 ショプロンにて、11/26プラティスラヴァで演奏会をして絶賛される。
●1822(11歳)5月 奨学資金をもらって一家はウィーンへ転居。12/1 ウィーンデビュー演奏会。
●1823(12歳) ウィーンで、チェルニーから完璧で理想的なピアノ指導を受け、作曲をサリエリに習う。
4/13 ウィーンで、5/1ほかハンガリーのペシュトで演奏会。 9/12 ウィーンをあとにしてパリへ向かう。12/11 パリに着く。
●1824(13歳) 作曲をパエールに、理論をレイハに学ぶ。 3/7 イタリア劇場でのデビュー演奏会で、フンメルのロ短調協奏曲を弾く。即興演奏は人気を博し、ヌーヴォー(新)・モーツァルトと騒がれる。 6月、イギリス演奏旅行、25年、2回目のイギリス・ツアー。
●1827(16歳) 4月~8月、3度目のイギリス演奏旅行のあと、8/28、父アダムがドーヴァー海峡に面したフランスの保養地で51歳の若さで急死。一人取り残されたフランツは、オーストリアにいた母をパリに呼び寄せ、二人の生計を立てるためピアノ教師として働き始めた。
○1827(22歳) マリー・ド・フラヴィニー、15歳年上のシャルル・ダグー伯爵と結婚。翌1828年、娘ルイーズ・ダグー誕生。
●1828(17歳)~1830(19歳) ピアノの生徒の伯爵令嬢と恋におちるが、身分の違いのせいで許されず、修道院に入りたいと願うが母に反対される。失意のあまり宗教、哲学、文学、思想書を読み漁り、しばらくピアノから遠ざかったが、生活費のためにやめられないレッスンの傍ら、猛練習を始め、公開演奏会のレパートリーを作り始めた。芸術と芸術家について深く考え続けた、苦悩と迷いに満ちた青春の摸索時代を経て、神童リストが芸術家への階段を上っていく…。
●1830(19歳) 「七月革命」の大砲の音で目を覚ましたフランツは、ついに繭から出て蝶になる。パリの華やかな貴族のサロンに出入りし、バルザック、「オーベルマン」の作者セナンクールたち文学者や、詩人のミュッセ、ハイネ、画家のドラクロワたち、ロマン主義を謳歌する芸術家と知り合った。12/4ベルリオーズと初めて会い、<幻想交響曲>の初演を聴く。また貴族の娘や奥方たち特権的階級の女性からの誘いも多く、モテモテの身分を甘受した。
○1830(25歳) マリーも、マラケ河岸の館の窓から民衆の蜂起を目撃、大砲と銃撃戦の音を聞いた。次女クレール・ダグー誕生、生れてすぐに住まいとは別の場所でサロンを開く。マリーのサロンでは音楽が特別に高く評価されていた。イタリア人の作曲家で当時パリに住んでいたロッシーニも常連客で、マリーの弾くピアノは彼を喜ばせていた。こうしてエレガントな社交界に、ロマン主義の思想と音楽が浸透していった。
●1832(21歳) 2/26 ショパンのパリ・デビュー演奏会を聴く。4/20 パガニーニの演奏を聴く。
●○(21と27歳)12月末ル・ヴァイエ侯爵夫人のサロンで二人は出会う。二人ともこの出会いがその世紀の最も有名な恋の冒険の始まりになるとは知る由もなかった。ゆっくりと最後の別離を迎えるまでに、どのようにして情熱が生まれ、結晶し、その絶頂点まで発展していったかを、二人の交わしたおびただしい数の手紙が明かす。
MUSIQUE 1 ≪ペトラルカのソネット 104番≫ 巡礼の年第2年「イタリア」より
MARIE:サロンのとびらが開き、わたしの目の前に不思議な幻が現われた。幻の出現?・・・
FRANZ:私はうぬぼれと自己愛が強く、自分の高い命運に尊大な誇りを持っています。・・・
MUSIQUE 2:ショパン/リスト ≪酒の歌≫